雨は小1時間ほどで止んだ。秋雨と呼ぶにはあまりに冷たい空気が白昼を包み込む。ただ透き通るように澄んだ世界は、鉛色を交えた蒼を抱えていた。
窓から見える萌葱色に、静かに手のひらに爪を立てる。背後でロッキングチェアが小さく囀るような音を立てている。振り返った先にいる祖母に、私は感情を押し殺して言葉をかけた。

「ごめんね、おばあちゃん。変わった子だとは思ってたんだけど、あんなこと言うなんて思わなかったから」

キイキイと音を立て、振り子のように揺れる椅子に目を細める。依然として穏やかな微笑を称えている祖母は、気にするなとでも言うように首を振った。胸中に沈澱していく得体の知れない不安は嵩を増す。
窓から見える海は、先ほどの雨など意に介さず沈黙している。秋雨がもたらした空気に溶け込んだ冷気よりも、ずっと凍り付くような冷たさを孕んでいるのだろう。気が遠くなるほど途方もなく彩られた視界の果ては、水平線すら融解していた。寂れた色を抱え、底の見えない蒼は無表情を其処に貼り付ける。

『キミの祖母は2年前に死んだとトモダチから聞いたよ』

頭の中でゆっくりと、青年の言葉が再生される。淡々と空間に沈むその声は、思い返すとゾッとするほど真っ直ぐに吐き出されていた。窓枠に触れていた指先に力が籠もる。カタリと音を立てた窓ガラスに、私は一瞬だけ呼吸を止めた。
――では、今目の前に在るのは一体何なのだ。
目の前に存在する人物を指して、何故そう言い切れるのだろう。この人は紛れもなく私の祖母である女性だ。2年前、一緒に暮らし始めてから今日に至るまで、それを疑ったことはない。疑うようなことも、なかった。
彼は私に「間違い」を指摘したが、ただ抑揚に欠けた毎日に心当たりはない。私は何も間違ってはいない。ただ『普通』に暮らしてきただけだ。彼の言葉に、惑わされてはいけない。
まるで自身に言い聞かせるように繰り返した。そっと爪を立てる懐疑の念を、私は淘汰する。

「おばあちゃん」

窓の外から視線を移す。足を引きずるように祖母の傍らに寄り、床に膝を着く。そして肘置きに顎を乗せ、もう一度祖母を呼んだ。アンティークのロッキングチェアは、アップルパイが好きな祖母の優しい匂いがした。伸びてきた手のひらが髪を梳くように撫でる。その心地よさに目を細めた。

「大丈夫、だよね」

私の呟きに祖母は答えない。一瞬だけ息を呑むような吐息が聞こえ、私の瞼は震える。まるでそれを取り繕うに言葉を続ける。

「私たち、家族だもの。パパやママみたいに、私を追い出さないよね、まだ、もう少し、置いていかないでいてくれるよね……」

――もう少し。
懇願するように瞼を閉じる。揺れるロッキングチェアを強引に押さえ、安定を結び付けた。私の頭を撫でる祖母の手は依然として温かい。
それでも、あの青年の言葉はべったりと私の鼓膜にこびり付いて離れなかった。





窓を開けるなり、部屋に流れ込んでくる潮の香りに私は呼吸を細めた。遠くから海面を眩く照らす朝陽は、秋ならではの冷たく済んだ白を宿している。未だ四肢を絡め取る微睡みから強引に体を引き剥がし、ベッドから降りた。
今日は回線工事の為に業者の人がやって来る。言い渡された予定では11時頃と言っていたが、早めに起きて、準備をしなければならない。手早く着替えを済まし、朝食の準備のためキッチンに向かった。
しかしキッチンに辿り着くと、既に起きていた祖母がテーブルの上に皿とカップを並べていた。その姿に声をかける。いつものように、穏やかな笑みが返ってきた。

それは、変わらない日常の証だった。感情の起伏に乏しい、平坦な1日が始まる合図だ――。





予定よりほんの少し早く来た業者により、回線工事は無事に終わった。こちらに来る際に、新しく買った固定電話も繋がり、わざわざ外にまで連絡を取りに行く必要もなくなった。手間がまた1つ減った。ほっと息を吐き、既に業者が去った家の中でソファに身を投げ出した。祖母は朝食の後、やはり体調が悪かったのか部屋に戻ってしまった。思い返せば、朝食も半分以上残していた。ひとりになったリビングで、再び大きく息を吐き出す。
……ヨーグルトか何か、食べやすいものを買ってこよう。少しでも栄養を取れるよう、果物も。――林檎がいいだろう。好きなものなら、きっと食べやすいに違いない。早く元気になってほしい。そんな願いを込めるように、買い出しに行く準備に取りかかる。
そして部屋の奥に声をかけ、私は家を出た。


今日は昨日ほど寒さが厳しくはない。見上げた先の秋の空は、白々しく地表を見下ろしている。
買い出しに向かう時は最低限の荷物しか持っていかない。財布とハンドタオル、ポケットティッシュを詰め込んで少し余裕がある程度のバッグを指に掛け、街を目指す。
昨日の蟠りなど、最初から無かったかのように思考を塗り潰し続けた。無意識に握り締めた手のひらは、指が白くなるほど力が籠もっていた。
――あの日、逃げるようにして祖母のもとにやってきた。やっと得たこの場所を失うわけにはいかない。脳裏に蘇る、見知らぬ男と交わる母の姿に、軽い嘔吐感が咽喉をいたずらに撫でた。あの家にいる限り、私の平穏は約束されている。今更過去のことを引きずり出して不快感を抱く必要などない。私は何も間違っていない。

「――知らないふりをすることは、罪悪だよ」
「!」

うなじに触れた声に、私の肩は無意識に跳ねた。大きく脈打った心臓から、不安にも似た思いが全身に送り出される。一瞬だけ呼吸を止め、私は後ろを振り返った。
そこにはチョロネコを抱えたNが無表情で立っていた。

「N……」

姿を確認し、呟くように漏らすと、彼はチョロネコの額を撫でながら唇のみで笑った。「また会ったね」というまるで定型文とも取れる言葉を放つ彼に、私は「こんにちは」と何事も無かったかのように答えた。ゆっくりと距離を詰めてくる姿に、無意識に体が強張る。

「買い出しかい?」
「うん。おばあちゃんに、ヨーグルトと林檎を」
「――まだ、キミはわかっていなかったのか」

Nの瞳から急速に感情が抜け落ちていく。肌が粟立つ。1歩、私は後ろに後退した。

「ボクの言葉では通じない? それともキミのエゴ?」
「何が……」
「ボクは間違ったことをしているつもりはないよ。それはキミも同じだろ?」
「なに、何なの、何……何で、そういうこと。昨日も、そんな」
「ボクはトモダチを助けたいだけだよ。その考えを偏見だと言えば、否定はできない。だけど後悔はあまりしたくないんだ。死んでしまっては、遅いだろ」
「やめて、そういう、そんなことばかり、なんで、やめてよ」
「でも、言わないとキミは気づかないでしょ」

彼が吐くのは意味の分からない言葉の羅列だ。しかしそれは不気味さを孕んで心臓を覆う。輪郭を持たない、漠然とした恐怖が漣のように爪先へと這ってくる。
――私はただ、普通に生きていたいだけだ。生きているだけだ。
彼の腕の中のチョロネコが欠伸をした。彼はそんなチョロネコに苦笑をしながら、「バカみたいだなんて言わないで」と零した。その隙をつくように、私は声を張った。

「私、もう、行くから」
「name」
「……」
「傷付けたなら謝るよ。でも、失ってからキミが気付いても意味がないんだ」
「……」
「そういう『間違え方』は悪くないけど、良くもないだろ」

肌を突き刺す冷たさと共に、心臓に何かがズブリと埋まった。足下に口を開けた淡い影が、呑み込もうと色を増す。遠くに聞こえる波の音に、思考がジリジリと焼かれていく。私はほとんど衝動的にその場から走り出していた。彼そのものを「不安」と「恐怖」の象徴とし、それから逃れるように街の中心を目指して走る。アスファルトを蹴る。潮のにおいも、波の音も、冷たい風も、全てが信用できない。そんな疑心暗鬼に捕らわれている自身が、ひどく滑稽に思えた。

彼の「意味がない」という言葉がリフレインする。不意に込み上げてきた熱に瞼がじわりと滲む。泣き出してしまいたい。そんな衝動に駆られた。服の袖で目元を拭い、僅かに乱れた呼吸を整える。
バッグを抱き締めるように抱え、大きく深呼吸をした。口腔から体内へと流れ込む冷たい空気に、高ぶった心中が落ち着きを取り戻していく。
改めて目的地へと歩を進め、私はヨーグルトと林檎を購入した。家に帰れば、総てが元通りになる。大丈夫だ。何も不安などない。だが、どうにも家に向かう足取りは重かった。



その日、帰った家の中に祖母の姿はなかった。
代わりに弱り切ったゾロアと、それを抱えたNの姿がロッキングチェアの上にあった。






20111101

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